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ノーメイクスについて 【その1】

 05, 2016 22:44
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 ノーメイクスのことについて書いてみたい。

 ノーメイクスは映画監督井口昇がプロデュースするアイドルユニットで、2015年3月13日に東京Zeep DiverCity TOKYOの『エコーズオブスピリット』でデビューライブを果たしている。
 メンバー五人は全員女優経験者で、今年の3月には主演映画『キネマ純情』が公開予定だ。
 ノーメイクス公式サイトはこちら → http://nomakes.com/

 井口監督の作品は友だちの影響で何本か見ていた(『戦闘少女 血の鉄仮面伝説』、『富江 アンリミテッド』、『電人ザボーガー』、『ヌイグルマーZ』――テレビシリーズでは『監獄学園-プリズンスクール-』)。
 ただ、ぼくはいわゆるゴア描写やブラックユーモアというものがすごく苦手(というか嫌い)で、それらが露骨に出ているであろう井口監督の作品(『片腕マシンガール』や『デッド寿司』)は、申し訳ないことにまだ見ていない。
 とはいえ、『電人ザボーガー』ほど正しいリメイク映画は見たことがなかったし、『ヌイグルマーZ』は「女の子のヒーロー映画(ヒロインに非ず)」という新しいかたちのヒーロー像を確立した傑作だと思っている。
 『電人ザボーガー』は過去作からそのまま引き継ぐべき部分と、いま現在の技術でできるためにブラッシュアップするべき部分の結合がすばらしくハマっていて、ともすればアンバランスになりかねない微妙なところをうまくまとめている。たとえばザボーガの変形シーンは原点のかっこよさと現在のCGによる変形のかっこよさを両方見せてくれているかと思えば、ブルガンダーのようなアナログゆえのマヌケな部分はきちんと残している。それをやると普通は作品世界がいびつになってしまうのだが、井口監督の原点作品に対する理解度が突き抜けているため、そうなっていない。過去作のファンも新規のファンも納得できる、特撮映画の傑作だと思う。
 『ヌイグルマーZ』は、「自分の心は女でレズ」と公言する井口監督の心が投影されているように感じた。少女漫画的世界観の中にヒーローとその葛藤を投入し、それを成立させる力技がすばらしい。この作品でも見られる井口監督のバランス感覚は実に絶妙で、シリアスとコメディをきちんと両立させることのできる稀有な存在だと思っている。

 そんな井口昇監督がアイドルをプロデュースするという話を最初に知ったのは、ツイッターでだった。
 いま日本では過去最大数のアイドルが林立している。ぼくもアイドルは大好きだが、とてもすべてに目を通すことすらできないし、これだけの数がいたらその気にもならない。
 でも、このノーメイクスというアイドルのことは気になった。
 アイドルとて一口に言っても、さまざまな方面からのアプローチがある。ジャンルはどんどん細分化され、コンセプトも多様化していて、もはやその隙間はないようにさえ思える。
 しかし「女優」――若いアイドルがよく言う「女優さん」ではなく――きちんとしたキャリアを持つ女の子たちによるユニットということに、いい意味でひっかかりがあった。それを映画監督がプロデュースするとなれば、これは注目しないわけにはいかない。
 なので、決して熱心とは言えないものの、ぼくはちらちらとノーメイクスの情報には接していた。いつか現場に行かないといけないなと思いつつ……。
 距離を置いて見ていたのには理由がある。そのころのぼくはAKB48チーム8にハマリにハマっていた(――もちろん、今でもハマっているが)。
 一昨年の劇場公演をきっかけに、無銭イベントでは飽きたらず、チーム8を追いかけて、山梨、鳥取、福島、京都、山形、高知、宮崎、長野、滋賀、岡山、香川と遠征をした。そんな中ではなかなか他のアイドルに目を向けることはできず、アイドルだけではなくて映画館へ通う回数も激減した。
 だからノーメイクスはずっと気にはなっていたものの、もしも「ハマった」りしたら大変だという思いがずっとあったのだ。

 それでも気になり続けていたのは、ノーメイクス全体のバランスの良さだ。
 先ほど、ぼくは、井口作品のバランスの良さについて言及したが、それはノーメイクスというアイドルユニットにも発揮されている。
 アイドルユニットにとってもっとも大切なのはかわいい女の子を集めることではない。全体としてのバランスだ。これをわかってない人がやると、いくらメンバーがかわいい子であっても売れない。
 初めてノーメイクス五人の全体写真を見たときに、ぼくはあっと思った。五人の容姿のバランスがすごくいいのだ。
 単純に、見た目の個性がバラバラのメンバーを集めてもこうはならない。というか、これに公式のようなものはない。かわいい系、きれい系、ロリ系、男前系……など、アイドルにもいろんなタイプがいるが、それらをどういう比率で集めればいいとか、どういう順序で並べればいいとか、そんなものはない。集めてみて初めて、唯一無二のものになるものだと思う。
 バランスの良いユニットアイドルとは、それだけで奇跡的で美しい。
 それをノーメイクスはクリアしているように見えた。
 ぼくは、だから今でも、ノーメイクスはだれ推しということはなくて、あくまでも箱推しだ。メンバーがこれを読んだら「そんなことないでしょ。好みはあるはず」と思うかもしれないが、本当に全員が好きなのだから仕方ない。
 だからいつか現場には行かないといけないと頭の片隅で思いつつも、チーム8の現場を優先していたせいで、なかなかタイミングが合わずにいた。

 そしてようやく、その機会が巡ってきた。
 ぼくが初めてノーメイクスの現場へ行ったのは、去年の8月1日の「中野駅前大盆踊り大会」だった。
 実はこの前から、ツイッターではノーメイクスのことを少しずつつぶやいていた。
 すると、メンバーの荒川実里さんからリプなどがあったのだ。
 まだ知られていないアイドルゆえに、彼女たちはおそらくエゴサーチなどして、ファンの獲得に務めているのだと思う。それは努力の一環であり、とてもいいことだ。
 その頃のノーメイクスの現場では、一眼レフでも撮影ができた。荒川実里さんから教えられた。ぼくはしばらくそのことを知らなかった。
 俄然、行く気になった。
 ぼくはアイドルにかぎらず、とにかく女性を撮ることが好きだ。チーム8にハマった理由のひとつが「撮影可」だったからだ(もちろん、それだけではないが、大きな動機のひとつであることはまちがいない)。
 好きなアイドルを撮れるというのは、運営の人たちが思っている以上に、現場へ向かう大きな動機付けになる(とはいえ、カメコだらけの現場になるのも運営としては避けたいだろうが)。
 ノーメイクスを撮れる――これが現場へ向かったいちばんの理由だ。

 初めてのノーメイクスの現場は、いい意味で実にユルかった。ライブ開始10分前だというのに最前は空いているし、人の山越しに撮ることになるかもしれないと持参してきた300ミリの望遠レンズと踏み台の出番はなかった。いつもチーム8の現場の壮絶さを経験しているが、それとはまったくちがう世界があった。ちょっとしたカルチャーショックだった。
 現場について少し待っていると、物販スペースのテント内にメンバーが姿を現した。初の生ノーメイクスだ。ぼくのテンションはアガった。みんな個性的でかわいくて魅力的だ。
 無銭撮影はいけないと思い、まずはタオルを買ってサインをしてもらった。数日前から、ツイッター上で荒川実里さんがリプをくれていたので、なにか挨拶をしたほうがいいかと思いつつも、初対面でそんなことを言ったら「認知厨」だと思われかねないと黙っていた。しかしメンバーのほうから「初めてですか」と聞かれ(緊張していたので、だれに言われたかは覚えていない……)、小さく「はい」と答えた。完全に怪しいヲタクの振る舞いだった。
 そしてライブが始まった。セットリストの順番は覚えていないが、『キネマ純情』がすごく印象に残っていて、いまでもノーメイクスの中ではいちばん好きな曲だ。
 カメコは歌を聞いていないと思われるかもしれないが、ぼくは撮影に集中しつつも、きちんと聞いているつもりだ。初めてノーメイクスを撮影しながら、ぼくはハマる予感を覚えた。
 ハマると思ったいちばんの理由は――これは誤解しないでもらいたいのだが――メンバーたちの未熟さだった。
 この日のノーメイクスはどこか、とまどいを感じているように見えた。アイドルを演じきれていないように見えたのだ(アイドルに限らず、人は常になにかを演じているわけで、アイドルを演じることはまったく問題ない)。メンバーの「アイドルとしての」演技には不安や自信の無さからくる、とまどいがあったように感じた。
 だが、それこそが、ぼくがノーメイクスを好きになった理由でもある。
 デビューして半年も経っていないアイドルが完成していないのは当たり前だ。チーム8だって、いまだに完成しているとは言いがたい(というか、まだ完成していない)。でも、アイドルの魅力は完成度ではない。未完成のものが少しずつ形をなしていく過程を見ることこそ、アイドル鑑賞の醍醐味である。
 この時点で、五人の女優が〈ノーメイクス〉というアイドルを演じきれていたとしたら、ぼくはもう現場には行かなかっただろう。
 だが――幸いにして――ノーメイクスはまだまだ完成していなかった。今からなら、成長の過程を楽しめる……ぼくはノーメイクスの現場にも通うことを決めた。休みの予定や金銭的な問題から、チーム8の現場にさえ満足に行けているとは言いがたい現状で、他のアイドルを追う余裕があるのか……と思いつつも。
 その後、吉祥寺、柏、上尾、船橋、渋谷と、ぼくはノーメイクスの現場に通った。いつも愛用の一眼レフを持って行き、狂ったように彼女たちを撮った。そしてツイッターに写真を上げていった。それらはメンバー自身や井口監督によってリツイートされ、何度目かの握手会だかサイン会で、ぼくは自分が認知されていることを知った(とはいえ、ぼくはアイドル本人に認知されるのはあまり好きではない。なぜかは、また別の機会にでも……)。

 アイドルの変化の瞬間に居合わせたときほど、ファンであって良かったと思うことはない。ノーメイクスの場合は、2015年10月17日の吉祥寺タワーレコードのインストアライブが正にそうだった。
 この日のライブで、ノーメイクスは最後の曲『ハイ、敬礼!』を歌っている途中でステージから観客スペースの後ろへと回りこみ、そこでパフォーマンスの続きをおこなったあと、MCを始めた。
 このとき、ノーメイクスはある種の一線を越えた。
 今までステージの上――すなわち、観客に向かって一方的にパフォーマンスをするだけの存在だったノーメイクスは、物理的に観客の背後に回った。観客の視点を自分たち自身の動きによって誘導したのだ。ノーメイクスはステージ上だけの存在ではなく、パフォーマンスに観客を巻き込むことを覚え、実践した。大きな変化だと思う。
 そしてこの日は、2015年最後の吉祥寺店イベントということもあり、それまでのことを振り返るとともに、これからの抱負をメンバーが語った。
 特に印象深いのは、リーダー中村朝佳さんの言葉だった。
「私たちはもともと女優なんですよ……。だからアイドルをやるってなったときになにもわからない状態で、笑顔もひきつるし、いま自由にやっているMCもまずは台本に書いてセリフのような感じで言っていたんだけど、だんだんだんだん忙しくてできなくなり……。でも、やっと、ここでアイドルに……なれたのかな……? みなさんにアイドルにさせてもらっているな……っていうのを思って……。でもでも私たちはもとは女優なので、しっかりそこを忘れずに……そしてアイドルとしても中途半端は絶対いやなので、やれるところまでいこうと思うので、みなさん、ぜひ、私たちのことを支えて、これからも応援してください。ノーメイクスをよろしくおねがいします」
 ぼくはこの中村朝佳さんの言葉にとても感動した。
 中村朝佳さんはアイドルの本質をきちんとわかっていたからだ。アイドルとはアイドル本人たちだけの力でなれるものではない。ファンの存在があってこそ、アイドルはアイドルになれる。それはファンが増えて人気が出る――という単純な意味ではない。
 無論、多かれ少なかれ、アイドルはもちろんファンの存在を意識しているだろう。ファンが存在しなければマーケットとして成り立たず、アイドルは消滅する。しかしマーケットという経済的な意味合いだけではなく、まず、アイドル自身の意識としてどれだけファンと向き合っているのかが重要である。
 中村朝佳さんは「アイドルをやる」と言い、そして「アイドルになれたかな」と言った。この意識の変化はすごく大切なことだと思う。だが、〈ノーメイクス〉はあくまでも女優であり、アイドルであるとも言う。ここに〈ノーメイクス〉が他のアイドルと一線を画する部分があり、最大の魅力となっている。
 アイドルから「女優さん」になりたいと言い、実際に「女優さん」になるアイドルもたくさんいる。しかし、その逆というのはあるようでなかった。というか、ノーメイクスは「女優さん」ではない。「女優」なのだ。このちがいは大きい。
 女優であることと、アイドルであることは、はたして両立できるのか。ノーメイクスとは、井口監督が仕掛けた実験なのかもしれない。
 この〈ノーメイクス吉祥寺事変〉とでも名付けたい瞬間に立ち会えたことは、ぼくのメイカーズとしての誇りでもある。
 (このときの様子はYOUTUBEのタワーレコード公式でも見られるので、ぜひ見てみてほしい。 → https://www.youtube.com/watch?v=OT1VVc764-c

 そしてノーメイクスの魅力のひとつに、曲の斬新さ――特に、歌詞――がある。
 井口監督自身による歌詞は、どの曲も最高に狂っている(もちろん褒めてます)。
 ノーメイクスの曲に登場する女の子は、どれも井口作品に出てきそうな、卑屈な意識を持つキャラクターだ。

 「自分ごときが 恋する事を 罪だと思ってた
  恋愛世界 そぐわぬ私に アナタは微笑んだ」

 『ハイ!敬礼』の中で、いちばん好きな部分がここだ。
 この女の子は自分が世界にとって異質な存在であると思っている。それはだれもが多かれ少なかれ感じていることだろうが、この女の子は特にその思いが強く、恋をすることもそれをうまく表現することもできない。自分を受けてれてくれる相手に対しても、なぜか敬礼という儀式的な表現をしてしまう。普通の感覚ではありえないことだが、この歌をアイドルが歌うと、不思議と成立してしまうのである。それこそがアイドルの持つ魔力であり、魅力である。アイドル自身が歌詞を100%理解する必要はない。意味がわからないまま、あるいは感情移入できないまま歌うからこそ、そこに作詞家の意図とのズレが生じる。そのズレがアイドルの歌の面白さだ。

 「ムカデみたいな人間に なるとしたら
  誰とつながりたい? 誰の後ろがいい?」

 『僕たちは年がら年じゅう、ハロウィンなのさ!』では、聞き手のリテラシーが試される。
 この歌詞は映画をよく見る人か(特に『映画秘宝』系)、ホラーというジャンルに精通した人でないと意味がわからない。日本では2011年に公開されたトム・シックス監督の『ムカデ人間』がこの歌詞の土台となっているからだ。東京ですら単館上映だったマイナー作品だし、内容の過激さを考えれば、とてもアイドルが歌う歌に入れるべきモチーフではない。
 それでも井口監督がこの歌詞を入れたのは、なによりも「面白いから」だろう。そして、この歌詞の元ネタや意味をきちんとわかる人がいることを信じているからだろう。その姿勢は受け手にとっても、実に心地いい。
 近頃の歌は、言いたいことをそのまま歌詞にしているものが多い。だれかを好きだという歌では、そのまま「あなたが好き」と言ってしまうのだ。ここには情景描写などない。つまり、ドラマがないのだ。聞き手の想像力を信じていないか、なにも考えていないかはわからないが、いずれにしてもこんな歌ばかりなのが現状だ。
 歌を聞くというのは、もっと自由で楽しいものだ。歌詞と音楽から自分だけの映像を思い浮かべられるはずだ。その自由さがあるからこそ、聞く者は歌の世界の主人公になれる。そして、歌う者も――。
 「ムカデみたいな人間」という言葉を、アイドルがどう解釈し、そこになにを込めるのか。女優の集まりであるノーメイクス以外に、こんな歌を解釈することはできないだろう。そしてノーメイクスのプロデューサーである井口監督以外に、こんな詩を書くこともできないだろう。

 というわけで、大まかではあるが、ぼくがノーメイクスに惹かれている理由を書いてみた。
 メンバーひとりひとりについて、今回はあまり言及せず、あくまでもユニットとしてのノーメイクスを見てみた。いずれメンバー五人についてもいろいろと書いてみたい。まだ、ぼくはメンバーのことをなにも知らないに等しい。彼女たちが出演した映画も舞台も映像作品も、まだまだ見きれていない。それらをある程度見てからでなければ、書くことはできない。 
 でも、あわてることはない。ノーメイクスは始まったばかりだ。
 

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